本名 | 渡部 陽一 Yoichi Watanabe |
出身地 | 静岡県富士市 |
学歴 | 明治学院大学 法学部 法律学科卒業 |
生年月日 | 1972/9/1 |
学生時代から世界の紛争地域を専門に取材を続ける。
戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。イラク戦争では米軍従軍(EMBED)取材を経験。これまでの主な取材地はイラク戦争のほかルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、コロンビア左翼ゲリラ解放戦線、スーダン、ダルフール紛争、パレスティナ紛争など。
私、渡部陽一が戦場カメラマンになったきっかけをお伝えいたします。
「戦場報道とは生きて帰ること」
日々取材を敢行するうえで、この言葉を何度も唱え自らを戒めています。
戦場という危険な場所になぜカメラを抱え飛び込んでいくのか、ジャーナリストとして現地報道することにいかなる使命があるのか。戦場カメラマンとして世界中を飛び回るに至った経緯、取材先での体験などを記させていただきました。戦場カメラマンとして現場に立つ想いが伝われば幸いです。
最初はただピグミー族に会いたかった
大学一年生の折、生物学の講義でいまだ狩猟生活をおくる人たちがアフリカ中央部にいることを知りました。その部族はピグミー族(ムブティ族)と呼ばれ、平均身長150cmほどの小柄な人達で、上半身裸、弓矢や槍を持ちワニやサルを捕りながら生活をしているということでした。想像を越えるピグミーの話に強烈に引き込まれました。自分自身でピグミー族に会って話をしてみよう、この目で彼らの存在を確かめてみたい、早速気の赴くままにアフリカへ向かう準備を始めました。そこには取材者という気概は無く、旅行者としてピグミー族のもとへ出向くつもりでした。もちろんカメラマンとしての経験、技量はゼロ、全くの素人そのものでの出発です。当時、戦場カメラマンになろうという思いは脳裏にはありません。ただカメラで撮影することには興味があり、家族や友人を被写体にすることが時折ある程度でした。
ヒッチハイクでジャングル横断
パスポートを取得し、アルバイトで貯めたお金を持ってアフリカのザイール(現在のコンゴ民主共 和国)のジャングルへ飛び込んでいきました。当時は外国を旅することも手探りの状態であり、 ましてジャングルで生きのびるための技術はありません。無知の功罪、まさにその言葉通りで、 無謀極まる旅であったと思います。 ピグミー族の住む地域に辿り着くまでは、ジャングルの中で約2ヶ月の行程をかけなければならず、 徒歩、カヌー、そしてジャングルを抜けるトラックにヒッチハイクさせてもらいながら、ピグミー 族が住む森を目指して奥へ奥へと入り込んでいきました。
ジャングルの中は高さ20m以上の大木が生い茂っていて、太陽の光が足下に届かないほどに木々が覆いかぶさっていました。そこでは方角もわからなくなり、食糧も水も尽きてしまいました。すぐにジャングルを一人で越えていくことは自殺行為そのものであると気がつきます。それ故、偶然出くわしたトラックに乗せてもらいながらジャングルを横断していきます。
「ピグミー族に会うために日本からやってきました。彼らの住む森まで乗せていただけないでしょうか?」
運転手は笑顔で僕をピックアップしてくれました。トラックには運転手とナビゲーター、さらに彼らの家族、途中まで同行する現地の若い男女が乗っていました。日本でいうダンプカーのようなドイツ製のトラックで、荷台にはたくさんの塩魚が積まれていました。そのトラックに乗りこんで約二ヶ月、彼らと共同生活をしながら旅を続けました。日中にトラックで移動して、夜はジャングルの中で野宿する日々、ジャングルの路は舗装などされているはずもなく、ぬかるみと巨大なクレーターのような穴が至る所にあいていて、トラックの進むスピードは歩いた方が早い程度のものでした。あまりにも進みが遅いので、先のことはいっさい考えないようにして日々の苦しみを乗りきりました。そして何の前ぶりも無く、ある事件に遭遇します。
突然の銃撃。-少年ゲリラとの遭遇
トラックが突き進む前方の森の中から、突然十数人の少年たちが現れました。目を凝らしてみると少年たちはAK-47カラシニコフという銃をかかえています。さらに槍や鉈をもっていて裸の上半身には帯状の弾倉の弾を何重にも巻き付けて、こちらに向かって怒声をあげていました。トラックの運転手が「伏せろ!」と叫んだ瞬間、少年たちが突然、銃を乱射してきました。トラックに銃弾が何発もあたり、耳元を金属音が飛び交っていく。少年たちが銃を撃ちながらこちらに向かってくることに震え上がりました。その瞬間、死の恐怖に襲われトラックから転げ落ち、そのまま失禁、赤ん坊のよう地べたを這いずりながら、トラックの後部へ無意識のうちに逃げようとしていました。ただ体が恐怖で動かず、逃げることができない。少年たちがこちらに無表情のまま近づいてきました。
彼らは少年ゲリラ兵。1993年当時、ツチ族・フツ族の衝突によるルワンダ内戦がアフリカ中東部のブルンジ、ザイールを巻き込んで拡大していました。ジェノサイドと呼ばれる民族大量虐殺が発生、100万人以上の民間人が犠牲となり、国連の介入もその効力は皆無に等しいものでした。アフリカの情勢が激しく動いているその最中、情報も持たずに現場に飛び込んでしまったことでツチ族・フツ族紛争の最前線にかち合ってしまったこと、自らの無知を悔いても既に手遅れでした。少年兵たちは、私たちを取り囲み銃尻で撲り続けました。立ち上がれないほどに打ちのめされました。トラックの積荷の塩魚は奪われ、自分の荷物・カメラ機材も略奪されました。ただ運が良かったのは、こちらから現金を差し出したことで、殺されずにすんだことでした。命を奪われなかったことは幸運以外のなにものでもありません。
アフリカでの少年ゲリラの蛮行。ここでは連日至極当たり前にこうした事件がおこっていました。日本からかけ離れたアフリカの森の中で理不尽な行いが繰り返されている。恐怖と怒りに震えながら、この状況を伝えることができないか、その方法を模索することとなりました。
職業としての戦場カメラマン
失意の念での帰国、その恐怖と怒りの感覚を引きずる日々が続きました。家族や友人に言葉で少年兵のことを伝えようとしても全く理解されることはありませんでした。あまりにも日本での生活とアフリカでの事件がかけ離れた位置にあり、認識できるほうが逆におかしいという状況でした。素直に言葉で伝わらないのであれば、好きな写真を使って伝えることはできないか、カメラを手にして現場に赴き、自ら見たものを撮影して写真を持ち帰る、一枚の写真の力で状況を伝えることができるのではと考えました。そして写真の力にすべてをかけてみようと心を決めました。
その後、再びアフリカ、ザイールに戻ります。そこではピグミー族はもちろん、その地で勃発しているルワンダ内戦の状況を写真に押さえていくことに集中しました。病気や怪我の予防、現地での情報収集、同じ過ちを犯さないよう万全の準備を重ねての初取材となりました。
この時から私は戦場カメラマンとして世界を飛びまわることになります。ルワンダ内戦、ユーゴスラビア・コソボ紛争、イラク戦争、アフガニスタン紛争、コロンビア内戦、パレスティナ紛争、スーダンダルフール紛争など学生という立場でありながら、世界中の戦場、情勢が不安定な地域、災害地を飛び回るようになりました。そして写真を新聞社や雑誌社に売り、その資金で再び戦争取材に飛び出していく流れが出来上がってきました。
《注:ルワンダ内戦》中央アフリカのルワンダ、ブルンジ、ザイールの3カ国で勃発したツチ族・フツ族民族紛争。犠牲者は100万人以上。この内戦を題材にした映画『ホテル・ルワンダ』『ルワンダの涙』が記憶に新しい。
戦場の最前線を取材していて、遭遇する大きな葛藤についてお伝えします。それは、撮影する被写体が危険にさらされているときに“助けるべき”なのか、“撮影するべき”なのかという瞬間です。混乱する現場の中では、そこに住む方々や兵士たちが次々と亡くなっていく状況に遭遇します。実際、自らが銃撃の恐怖と耳鳴りでその場に腰砕けとなって倒れこんでしまうことが何度もありました。カメラマンとして撮影さえできずに逃げ出したことも数えきれません。
現場では基本的に被写体となる方々に危機が迫っている時、撮影以前に助けに入ります。もちろん誰しも生き延びることが最優先であります。命が第一、撮影は二の次というのが現場での基本方針です。それは本能と言ったほうがいいかもしれません。ただ、戦場ではあまりにも状況が混乱しており、味方同士が殺し合ったり、兵士と一般人、カメラマンの区別がつかなかったりと、誰しもが生き延びることに喰らいつき、盲目となってしまうことも現実としてありました。
取材中に気を配るもう一つ大切な指針があります。それは取材方法として戦争に巻き込まれている被害者側の避難生活に入り込み、寝食を共にしながら取材を続けていくことです。いかに衝突する双方の意見をフラットに報道していくか土台を組み立て、そこに密着取材という独自性、臨場感を含ませることが私の取材スタンスです。
戦場に生きる方々の息づかい
取材で大切にしていること、それは現地の方々の生の声、息づかいを聞き込んでいくことにあります。外国人ジャーナリストという立場で、さらに両手には大型カメラをかかえているとどうしても取材対象となる方々は構えてしまい、普段とは全く違う表情で接してきます。
取材をするには常に「リスペクト」、相手に敬意を払うことがもっとも大切なのではと日々感じています。世界には日本とは異なる生活習慣や常識で生きている人がたくさんいます。「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」といわれる通り、どの国の常識が正しいということはまったくありません。それ故に取材先の国にジャーナリストとして入り込んでいくからには相手の生活慣習やルールに従って、取材を続けていくことが良き取材結果を引き寄せる一番の方法なのかも知れません。日本では絶対に許されないことが諸外国では当たり前に許されることが数多くあり、現場で動揺したり、悲しい結果になってしまったことが今まで多々ありました。やはり現場に何度も足を運ぶことで世界常識を肌でとらえ、日本を発った時点で生まれたての赤ん坊のような柔らかい五感に気持ちをリセットしてしまうことが理想なのかもしれません。
戦場ジャーナリストという存在
戦場取材の現場には、世界中から多くのジャーナリストが集まり、取材合戦ともいえる情報収集の競い合いが繰り広げられます。それぞれの国のジャーナリストにとって、自国の国民が必要としている情報を集め、配信することが大切な仕事です。そしてその取材内容に全責任を負います。
戦場取材に足を運び続けていて感じたことは、どの国のジャーナリストも現場での取材方法は基本的に似通っていましたが、そのニュース素材が自国で放送されるときには国ごとに大きく色分けされていることがありました。戦争を支持している立場なのか、反対の立場なのかでその国で流れるニュースは全く違ったものとなっていました。「戦争報道とはそこにある事実を伝えること」この一番大切なルールを守り、現場で切磋琢磨するジャーナリストたちにとって国別に配信ニュースが違っていたというのは恐怖を感じざる得ない瞬間でありました。戦争を支援するのか、しないのか、この選択が日本をはじめ世界中の国々に課される究極の選択となっていました。戦場ジャーナリストの責務、それは現場に立ち虐げられる方々の声を、そのまま伝えること、これに尽きると感じています。状況が不安定な国ではそこに生きる人たちの声はなかなか伝わってきません。ジャーナリストたちが、誰よりも先にそこに自ら飛び込み、今そこにある危機を素早く世界に伝えていくことが求められています。現場に立つジャーナリストの経験と知識、技量が取材を完遂させる大切な要素であるといえます。
戦場カメラマンになって一番興味深いこと、それは世界を飛び回ることで世界中に友人が出来たこと、これに尽きます。アフリカ、中東、北中南米、ユーラシア、アジアといった言葉も文化も慣習も違う国々に、気さくに迎えてくれる友人たちがいることに改めて驚いております。
日本で生まれ育ち、戦場カメラマンになるまで海外の方々と接触したことがなかった私が、カメラ両手に世界を飛び回ってみると、取材先の国々で救いの手を差し伸べてくれる人たちに必ず出会いました。そこでは戦争という混乱期にもかかわらず、見ず知らずの外国人ジャーナリストを迎えてくれる懐の大きさ、隣人を愛する思いやりのある人たちが世界にはたくさんいました。戦場で生きているにもかかわらず、誇り高く慈悲深い、優しさや献身の心を身につけていることに頭が下がりました。戦場の極限状況に生きる人たちは家族や友人の為にいかなる犠牲も払うと断言しています。そして、その通りにして亡くなられた方々を何人も知っています。国籍は関係なく、人として尊敬できる方々ばかりでした。
自分にとって世界中の友人たちに「こんにちは!」と挨拶に伺えることが、取材の中で大きな喜びを占めています。日本人と全く違った喜怒哀楽をはっきりと表に出す友人たちから、日々大きな刺激と教訓をもらっています。